心理学では、心と言う簡単に数字で表せないものを、科学的に扱うために様々なアプローチをしてきました。その一つが心理統計学です。今一つ判りづらく心理学を学ぶ勢いを削ぐような分野なのかもしれません。
私の場合は、躓いたのは統計的仮説検定の帰無仮説でした。帰無仮説って何?でした。
先ずは統計的仮説検定をおさらいすると、
あるゲームの名人と言われるAさんが、サイコロの1を2回続けて出しました。これは偶然でしょうか、それとも偶然以外の何か要因あるでしょうか?
例えば、1が出る確率は 1/6 なので、1が続けて出る確率は1/6 x 1/6 = 1/36 = 0.02777… ≒ 2.8%なので、かなり低い確率ですね。さて、これは偶然でしょうか?
実は、これはある数字を狙うと宣言して出す場合、つまり「これから私は1を出します!」と言って続けて出す場合は、この確率です。しかし単に同じ数字を続けだすのであれば、1/6 = 0.1666… ≒ 16.7% と10回に一回以上は誰でも起こりうる確率です。
さらに、「これから私は1を出します!」と言って3回続けて1を出したらどうでしょう?
確率は1/6 x 1/6 x 1/6 ≒ 0.46% です。200回以上で1回の確率です。Aさんに何かあるって思いたくなります。
心理学では、
このようにある事柄が偶然かそうでないかを統計的に判定することを統計手的仮説検定と呼びます。
その判定をする際に、次のような専門用語と手順を取ります。
有意水準を5%とすると、「これから私は1を出します!」といって2回出した場合は、偶然と言う虚無仮説が棄却され、Aさんが偶然ではなく1を続けて出せた可能性があると判定されます。また有意水準を1%とすると、2回出した場合の 2.8% は有意水準1%を上回るので偶然と判定されます。ただし、3回出した場合は 0.46%なので、有意水準1%を下回り、帰無仮説が偶然ではない可能性があると言えます。
- 最終的に棄却されることを目的とした帰無仮説を立てます。この場合は、Aさんが何かサイコロの目を左右する要因を持っているわけではなく1を続けて出せたのは偶然という仮説です。(次の❷で棄却される目的の仮説です)
- もしこの帰無仮説が棄却される場合は、対立仮説であるAさんには何かサイコロの目を左右する要因を持っている可能性があるとの判定になります。
- つまり帰無仮説を棄却するかどうかの判定は起こりうる確率がある水準より上回るか下回るかで判断されますが、心理学の領域では、この水準を有意水準と呼び、5%か1%を用います。
つまり、- 有意水準以上の場合は帰無仮説が採択されます。偶然であると判定されます。
- 有意水準以下の場合は帰無仮説が棄却され、対立仮説が採択されます。偶然ではない可能性があると判定されます。
回りくどい説明でしたが、確かに5%以下の確立だと、もしやと思いつつも偶然かもの気持ちがありますが、1%以下だとかなり本当にこの人何か持っているかもと思います。有意水準のレベル感は判りますね。
ここで注意点は帰無仮説が棄却され、「偶然ではない可能性がある」と対立仮説が採択された場合に、「偶然では無い」ではなく、「偶然ではない可能性がある」と言われるところです。例えば、有意水準を1%とした場合は、1%までの確率で偶然で1が続けて出る可能性があるからです。その場合の判断の誤りを、第1種の誤りと呼びます。この誤りは。有意水準が高いほど起きやすくなります。
一方、有意水準が低すぎると、どんな帰無仮説も棄却しない判断になります。この場合、本来棄却して対立仮説を採用すべき帰無仮説を棄却しないという、誤って棄却しない誤りを第2種の誤りと呼びます。
詳しい説明は専門のサイトにお任せするとして、どうやら帰無仮説の「帰無」がパワーワードで引っ張られる気がします。
帰無と言う言葉は単独では使われることは無いようで、辞書では帰無仮説で掲載されています。
なんと、nullつまり空白とか無しを帰無と訳したようです。確かに、現象の原因を何らかの要因に帰することを原因帰属あるいは単に帰属と呼びますので、帰属しないことから、帰無と名付けたのかもしれません。
この「棄てられる運命にあるように選ぶ」とは詩的な表現ですね。この言葉のリンクをたどると、著作権自由の「紡績工場の品質管理(3)」の講義の文章に行きつきました。

中略

この講義は、”StatisticalQualityControl”(E.L.Grant)を基に行われ、東京工業大学 青木朗先生あるいは連名の兼松羊毛工業株式会杜 川角義文さんが翻訳されたようです。この「棄てられる運命」の表現を統計数学の世界に当てはめた感性が気に入りました。
この辺りの背景を知ると、帰無仮説の言葉に愛しみを感じるようになりました。









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