「キャリア理論輪読会」募集中です! 詳細

四つの<物語>で学ぶ(3)ポールの物語

「サビカス キャリア構成理論 四つの〈物語〉で学ぶキャリアの形成と発達」の第五章第一部のポール・デンプシーの生涯のライフポートレートから抜粋して、彼の「仕事ではなく冒険を」を記します。

ポールの人生の最後に、5章の冒頭に語られた

「私が自分自身のために存在するのでなければ、誰が私のために存在するだろうか? 自分のために存在するのでないなら、どんな人間にならなければいけないのだろうか?」この奥深いニつの問いは、ユダヤ教司祭ヒレル (紀元前七〇年頃5紀元一〇年頃)によるものです。 最初の問いは、主体性、つまり、人は自分が意図的に結果を生み出すことができる存在であることに焦点を当てています。ニつ目の問いは、共同性、つまり、人は誰かとパートナーシップを結ぶべき存在であることに焦点を当てています。

の問いの答えが得られたことに安堵しました。

Stage
小学生

母親を心臓病で亡くした。

母親は背が高く、細身で、私と同じ1金髪でした。私の2は、ほとんど母が作ってくれたものです。母にとても愛されていると感じていました。彼女はいつも私を抱きしめて3くれ、病気でやつれた顔をしていたにもかかわらず、何かと私の面倒をみてくれました。「母は僕にスポーツや水泳をさせたがりませんでした。母親は僕のことを心配してばかりいました」。ポールは、父と母の関係は冷え切っていたと語りました。1自分が父親以上に母に近い存在だったということ。母親が亡くなったとき、3もう自分を心配してくれる人はいなくなったということです。「私はひとりぼっち4でした」。

祖父母叔母 母と私は、叔母たち、そして近くに住んでいた祖父母と一緒に過ごすことも多かったです。3高齢で自分のことかできなくなった祖父母たちは遠い人たちになっていて、4自分の本当の居場所かどこなのかわからなくなってしまっていました。看護師として働く叔母を尊敬していました。「彼女は自由な発想の持ち主です」。残念なことに、ポールはあまりその叔母と会う機会がありませんでした。「彼女は、ある場所で働き、そして飽きると、別の場所移って5行きました」。

幼かった頃のについては、 ほとんど思い出せません。父はずっと働いて6いました。母親が体調を崩し、仕事を辞めざるを得なくなり、母親かとても寂しそうにしていたが、「父は、何もしてくれませんでした。父はそばにいなかったんです」。私は、3父にもっと一緒いてほしかったんです。二五歳のとき、ポールは「私はいつも年上の男性7に指導を仰いています。なぜなら、私か子どもの頃、7父に導いてもらうことかできなかったからです。」一方、父親はインタビューで「私の父は貧しい人でした。ですから、私たちは皆、6一生懸命働かなければならなかったのです。お膳立てされていたものは何もありませんでした。苦労の連続でした。高校に進学することはかなわず8、厳しい生活を余儀なくされました。」

家政婦 父親は、妻の死後、近所に住む未亡人に、一日数時間、家事とポールの世話をするよう頼みました。私の母のようなフレンドリーさはありませんでした。いつも私の行動を監視していました。そのせいて、私は本当に縛られた状態9になっていました。3六月中旬まで厚手のコートを着なければなりませんでした。 いつも「これはダメ、あれはダメ」と言われ続けていました。9常に見られているようで、プレッシャーを感じていました。私は3受け入れてもらいたかった。でも、何をやっても家政婦も父も、3喜んでくれませんでした。

学校 私が通っていた小学校は、冷たくて味気ない雰囲気でした。4子どもたちはほとんど人として関心を持ってもらえませんでした。7私はどの先生とも親しくなることかできませんでした。

Stage
中学生

学校と様々な萌芽

中学一年生のクラスが小さな校舎に移ると、その状况は一変しました。7そのときの先生は生徒一人ひとりに興味をもってくれました。私は先生と親しくなることかできました。成績も優秀でした。どの教科も90点台後半でした。私は友人たちと関係性を築き、親しくなることがてきました。家族よりも友人に依存するようになりました。4家族より友達の方が自分にとっての居場所だと感じていました。

毎日放課後と週末に食堂で働け、と父から押しつけられたのです。彼はお金を稼いでも、5それを自由には使えませんでした。 14歳で週給25ドル稼いでいましたが、ポールはこの義務を嫌っていました。

12歳で車の運転を習い、 14歳で荷台付トラック、16歳でトレーラー付トラックを運転する9ようになりました。イースター休暇にモンタナ、旅行するために、食堂で働いたお金を貯めていることを話してくれました。叔母と一緒に、いとこを訪ねに行くのだと言います。5「すごく行きたいんだ。冒険したいからかな。ただ、そういうことをやるのか好きなんです」。

幼い頃、母かコンセントに電気製品のプラグを差し込んでいるのを見ました。そのコンセントにヘアピンを差し込んでみたら、かなりの衝撃10があったんです。そのときから、「何で飛び上るほどの衝撃かあるんだろう」と思っていました。それか頭に残っていたんです。誰も気に留めてくれませんでしたが、時間か経つにつれて、私は電気についてより深く知ることかできるようになりました。高校に入る前、ポールは大学で電気工学の学位を取得することを楽しみにしていました。「電気工学の最高学府を目指したいと思っていました」。父親は、8自分にできる限りの教育を施すと約束してくれました。ポールは「やりたいことをやれば、成功する」と述べました。ポールが中学三年生のときの面接で、彼は次のように話しました。「電気関係の仕事以外だったら、セールスの仕事に就くと思います。5一日中店の中でお客さんを待つのでなくて、外に売り歩く仕事です。好きなときに外に行ったり帰って来たりできるように」。

Stage
高校生

キャリア・アイデンティティ

高校入学を目前にして、ポールは友人たちと連絡が取れなくなりました。父親が、8経営する食堂の近くでより良い高校がある地域に家を買ったからです。「とても悲しい気持ちになりました」。家でも、学校でも、新しい仲間たちの間でも、ポールはまたしても4孤独を感じるようになりました」。一六歳のポールは、7実際の年齢よりも年上のように振る舞い、三人の警察官と一緒に酒を酌み交わしたりしていました。

高校三年生になると、ポールは学業をまったく無視するようになっていました。「やれる範囲で勉強すれば良いんです。 それで、できなければしようがなし学校に行く気があれば行くし、行きたくなければ行きません」。ポールは機械製図や自動車整備の科目は好きでしたが、成績はまったく気にしていませんでした。11職業的な目的を絞るためなら学校は関係ないと考えていました。

私はいつも街にいました。高校では女の子の専門家12になりました」と語りました。「一年問で18人のガールフレンドと経験があった」と言いました。彼は無免許で9トラクター・トレーラーを運転し始めました。農産物を都会へ運ぶ仕事をし、毎朝バーで飲みながら過ごし、彼よりずっと年上の女性に囲まれていました。

父親はまだ大学の学費を払うつもりでしたが、ポールは「大学には行かなくていい」と父親に言って、8大学で学ぶ計画を断念させてしまいました電気工学関係の仕事はほとんど内勤で、彼が望んでいた仕事ではなかったこともあります。

高校三年生のときには、9週に千マイル、車で走っていました。ポールは車に対する憧れだけでなく、10機械の組み立てと修理に対する並外れた適性もありました。メカニックになって、最終的には自分の修理工場を持ちたいと思っていました。しかし、高校三年生ですでにトラック運転手として週給300ドルを稼いでいたこともあり、そのような希望は弱まっていきました。高校三年生のときのポールの将来への展望は、「問題が起きたら、その都度対処すればいい」11になっていました。

高校三年生のとき、ポール は一つ年上の女の子と知り合いました。12ポール にとって重要なのは、彼女と「何時間でも一緒に話ができること」でした。「本当の意味で心を開くことかできました」。彼女は、ポールを説得して高校を卒業させ、二人は卒業後すぐに結婚しました。

Stage
家庭と働き方

娘が生まれ、一年余り後に息子が生まれ、彼らの生活スタイルは変わりました。3,4妻は家で子どもたちと過ごしました。この新しい環境に、ポールは喜びを感じていました。まるで家族の一員に戻ったような、安心感がありました。私たちは、何かしっかりとしたものを手に入れました。

ポールにたった一つ不満があるとすれば、仕事に対するものでした。ハイウェイバトロールのメカニックとして働きました。ポールに優れた機械技術があったため、マネージャーから、大量の機器を整備する責任も持たされてしまいました。、このような責任まで負わされることを、ポールは不満に思っていましたポールが州パトロールを解雇され、失業したのはニ五歳のときでした。次の屋根葺き職人の仕事は、出世のチャンスはほとんどありませんでした。彼は肉体労働に文句を言い、オーナーからは見下され、特に上司には疎まれていました。4,7背中をポンと叩いて、「よくやった」と言ってくれる人は誰もいませんでした

夕方や週末は、そのような副業で忙しかったのです。ポールは、胃の調子が悪くなったことは、パートタイムでやっていくには重すぎるビジネスのプレッシャーが原因だと考えました。6父親が週六日ビジネスを営むために支払わなければならなかった代償を思い出したポールは、5自由になれる新しい方向に進むことにし、内勤は私にはできないことでした。

Stage
人生をいつでも変えられる

樹木伐採

3,12ポールと妻は、故郷には何もないと思い、家を売り払って、州を越えて引っ越しました。それは、私にとって最高の出来事でした。5新しい土地、新しい家、そして新しい仕事に変わるというスリルがありました。本当にエキサイティングな一年でした。

しばらくして、彼はこの地域の樹木伐採に雇われることになりました。そして、その仕事ぶりか評価され、最初はクルーの班長、次には全クルーに対する監督の仕事を任されるようになりました。三五歳のとき、彼は昇進を果たし、次のように語りました。そして、ついにマネージャーを任され、「正社員であること」「毎日かチャレンジングであること」など、ほぼすべての面で満足していました。ポールは、「一日があっという問です。5座っている暇はない。毎日、新しい技術を学んでいます。仕事に行くたびに、 まったく新しいゲームに出会えます」。と述べています。 特に気に入っているのは、 何か問題があれば、7「すぐにオーナーに相談できること」だそうです。「オーナーに相談すると、親身になって話を聞いてくれ、 理解しようとしてくれます」。

13プレッシャーがひどくなると、何か突拍子もないことをして解消していました。 例えば、庭でトラックを30分ほど走らせたり。夕方にはバイクで送電線に沿って走ってみたり

ポールは、仕事も大切にしながら、家庭や家族も大事にして、趣味を楽しんでいました。ポールは、結婚生活にも深い満足感を得ており、彼を5束縛しない妻との関係にも満足し、子どもたちの成長も誇りに思っていました。父親として、子どもたちが望むことに対しては、ノーと言わないようにしていました。私はただ、私の父がしたように、3子どもたちの幼少期を見逃すことをしたくなかったのです。

ポールは、街のいろいろな責任ある役職に就いていて、地域社会のリーダー的存在でした。成長企業で高い評価を受け、責任ある仕事を任されていました。しかし、ポールか求めているものが、若い頃には経験できなかった7自由と子どものような喜びであることに変わりありませんでした。

運送プローカー

大成功を収めた樹木伐採業者から解雇されてしまいました。「私は40歳台だ、そして仕事がない これは深刻な事態だ。 どうやって生活費を払えばいい?よし、 現実的に考えよう。 11これかこの世の終わりというわけではない、別の仕事を探すことだ」。そして、 私は残りのお金の計算を始めました。「じゃあ、夏休みをとって、子どもたちと一緒に過ごそう」と。それで実行に移しました。息子と私は、夏の間中、森の中てオートバイに乗りました。 娘とは美術館に行ったり、いろいろなことを一緒にしました。 とても楽しい夏を過ごしました。

バスの整備士の仕事は三か月しか続かず、その後、貨物運送会社の代理店になりましたが四か月で倒産しました。多額の借金を背負うことになり、ポールは、11さあ、どうする? さあ、どうする? さて、運送の仕事をどこまで続けられるか、勝負してみようか」と言いました。

貨物運送会社の代理店の倒産から学んだことを生かして、他の二つの運送プローカーの代理店となりました。新規顧客の開拓、輸送会社の紹介、荷主と輸送会社のマッチング、荷主や輸送会社との交渉、トラックの配車、配送のスケジュール、問題の解決、対立の管理など、5自分の采配で働くことかできました。ポールの11創意工夫によって出たものでした。ポールは断熱材をトラックで運ぶ方法を考え出したのでした。私はさらに何社かのトラック運送会社を引き受けました。ある大手製紙会社の納品が三か月も遅れていることを知ったときも、ポールの創意工夫が発揮されました。鉄道なら六両、トラックなら18台分の紙を、一刻も早く届けなければなりません。ポールが「冷蔵トレーラーを使ってはどうか」と提案したところ、最初は皆、半信半疑でした。私か会いに行ったのは、新しくできた木材屋の男です。彼かたまたま道端に座っているところに行って言いました。「いいかい? トレーラーの床を張るには、40フィート、つまり10枚の合板か必要なんだ。でもトレーラーの横幅にはサイズが合わないから、切り落とさないといけない」 材木屋の男は「たくさん買ってくれるなら、無料で切ってあげるよ!」と言ってくれました。その結果、年間650万ドルを稼ぎだす運送量になりました。本当に大儲けしたんですよ。

船舶整備士

そうしている間に、ビジネスは減速し始めました。ポールは、11その状況を把握した上で、ある決断をしました。ニ年ほど休みました。ボートの仕事をして、海の近くて遊びました。海岸沿いで、係留してあるボートを持ち主のところまで運ぶ仕事をするようになったんです。免許を取得したポールは、9船舶整備士として働くことになりました。それ以来、ずっとその仕事を続けています。

Stage
「冒険」の終わり

11たとえ「冒険」が終わりそうになるような展開でも、彼は冷静に受け止めます。

妻が正社員として就職し、健康保険が適用されるようになったまさにその日、私は心臓発作に襲われました。心臓発作はとても強く、心臓か引きちぎられるほどでした。動脈のうち一本は、完全に詰まってしまっていました。75パーセントくらい閉塞した動脈ニ本、ほぼ正常な動脈は一本だけてした。それ以来、薬と食事療法を続けています。その上、糖尿病も発症してしまいました。

しかし、このような環境の変化にもかかわらず、彼はほんの少し生活のペースを落としただけでした。ポールは五九歳になった今も、さまざまな市民活動やボランティア団体に積極的に参加し、楽観的な考えを持ち続けています。

私には終わりはありません。5もっと旅がしたいです。9船に乗って東海岸を上り、五大湖を抜けてミシシッピ川を下りたいてすね。チャールストン、ノーフォーク、ボルチモアなど、海岸沿いのあちこちに友人かいるんです。3,12妻が定年退職したら、すぐに出発するつもりです。そのときにはかなり良い状態になっていると思うんです。

Stage
振り返り

これが、自分のキャリアは満足のいくものだったと報告する人の職歴でしようか。理由はいくつかあります。

  1. ポールは、経済的な幸運に恵まれてきました。地域社会で尊敬と憧れを集めてきました。
  2. 自分の子ども時代には考えられなかったような、楽しい家庭を築いてきました。
  3. 彼は、父親かしなかったようなリスクをあえて取りました
  4. ポールにとって母親か早く他界したことは心残りではありましたが、母親が経験できなかった人生を経験することができました。

しかし、よくよく考えてみると、ポールの中には不屈の精神とでもいうべきもの かあり、慌てることなく一歩下がって選択肢を検討する並外れた能力や、自分を犠牲者と見なすことを拒否し、人生の新しい章がもたらすであろうものに対する飽くことのない好奇心を持っていました。高校三年生のときに彼が言っていたように、11問題が起きたら、その都度対処すればいい」という人生でした。

ポールは冷静な分析家であり、決断を急ぐことはなく、その計画には常に、過去の教訓が活かされていました。苦労して得た教訓もあれば、努力を必要としない教訓もありました。教訓には手順や進む道か含まれていました。彼の創造性は空想的なものではなく、彼が冒すリスクは決して無謀なものではありません。人間関係を円滑にすることにも、不機嫌な船のエンジンをなだめることにも、自信に満ちあふれています。暗いときこそ夜明けの前兆と信じるように、ポールは新しい挑戦が地平線上に現れること、そしてレモンは遅かれ早かれレモネードになることを確信しているのです。どんな困難な状況でも、人は必ずやり遂げることができるということを、彼は十分に学んできました。彼の妻もその生き方を受け入れました。これらは、ポールが身をもって子どもたちに与えた教訓でもあります。しかし、子どもたち以上に、最もポールから学ぶことができたのは、父親だったのではないでしようか。父親かポールのような視野の広さを持っていたら、苦労して得た知恵を活かして生きていくことかできたでしよう。

おそらく、ポールは青年時代に考えていた人生の捉われを気にしなくなるときがやってくるでしょう。現在、彼は次のように述べています。「よくここまで生き延びてきました。私は自分の中に平和を見つけました。私はもう、自分とは戦いません」。

結婚生活が続く限りプレッシャーに満ちた生活から抜け出す安全弁がある限り、そして、ほんの少しの夢に向かって行動し続けられる限り、ポールはこれからも冒険を楽しみ続けるでしょう。

ゴロワーズ

ポールの物語では、さまざまな伏線が巡らされています。その関連を示すため上付きの番号を振りました。

  1. 親近性:背が高く、細身で、私と同じ金髪、父親以上に母に近い存在
  2. 心配する思い:私の服は、ほとんど母が作って、親は僕のことを心配して、家政婦によって六月中旬まで厚手のコート
  3. 寄り添い:母には愛されていると感じていました。いつも私を抱きしめてくれ。家政婦も父も受け入れてもらいたかったが何をやって喜んでくれません
  4. 孤独と浮遊:「私はひとりぼっちでした」。自分の本当の居場所かどこなのかわからなく
  5. 自由と移動:叔母を尊敬「彼女は自由な発想の持ち主です」。ある場所で働き、そして飽きると、別の場所に移って行5きました」。一日中店の中でお客さんを待つのでなくて、好きなときに外に行ったり帰って来たりできる
  6. 同じところで働き続ける:父はずっと働いていました。苦労の連続でした。厳しい生活を余儀なくされました。
  7. 年上の男性:私はいつも年上の男性に指導を仰いています。子どもの頃、父に導いてもらうことかできなかったから。「オーナーに相談すると、親身になって話を聞いてくれ、 理解しようとしてくれます」。
  8. 進学:高校に進学することはかなわず。父親はまだ大学の学費を払うつもりでした
  9. 車船舶など運転:16歳でトレーラー付トラックを運転する。船舶整備士として働くことになりました。
  10. 電気メカ:衝撃があったんです。そのときから、「何で飛び上るほどの衝撃かあるんだろう」と思っていました。それか頭に残っていた機械の組み立てと修理に対する並外れた適性もありました
  11. その都度対処:将来への展望は、「問題が起きたら、その都度対処すればいい」になっていました。職業的な目的を絞るためなら学校は関係ないと考えていました。修理工場を持ちたいと思っていました。しかし、週給300ドルを稼いでいたこともあり、そのような希望は弱まっていきました。
  12. 心を開く:重要なのは、彼女と「何時間でも一緒に話ができること」でした。「本当の意味で心を開くことかできました」。
  13. プレッシャー解消:何か突拍子もないことをして解消していました。

この後は、第二部で物語を自己構成とキャリア構成の視点で分析に続きます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次