性格類型論という、理論と言うよりは、実践的方法論として知られたものがあります。
例えば、「血液型別性格診断」のような科学的根拠のないものもから、西洋占星術の「12星座」など占いと言われるものまであります。
他には医学的な視点から、精神科医のエルンスト・クレッチマー(Ernst Kretschmer)の「気質類型」では、
パーソナリティの中心は気質であると考え、体型と気質を結びつけた3つの類型があるとしました。(Wikipediaより)
- 細長型 – 分裂気質。静か、控えめ、真面目。(敏感性と鈍感性)
- 肥満型 – 躁うつ気質(循環気質)。社交的、親切、温厚。
- 闘士型(筋骨型) – 粘着気質。きちょうめん、熱中しやすい、頑固、興奮しやすい
思うに、類型論とは、個人に対して、少ない情報で直感的かつ簡便に、個人の全体像(Personality)を捉えようとするステレオタイプであり、一種の省エネ的な認知、つまり以前取り上げた「認知ケチ」と捉えていました。
その前提からすると、精神分析の巨人フロイト反旗を翻し、負けづ劣らずの道を歩んだユングが「性格類型論」を後年に提唱したのが不思議でした。
しかし、その所の中で
理解することは = comprendere = katasyllambanein、そして獲得することでもあります。理解と合意は、飲み込む行為です。理解は恐ろしいほど束縛する力であり、重要な違いを均一にすることで、実際には魂の殺人となる可能性があります。しかし、真の理解は、理解されていないように思えるものであり、それでも存在し、効果を持つものです。他者の神秘に対する盲目を祝福すべきです。なぜなら、それは我々が悪魔的な暴力行為を行うのを防いでくれるからです。分析の脅威で危険な点は、個人が理解されたように見えることです:悪魔は彼の魂を奪い、食べてしまいます。
どうやら、ユングは他者の見解を非合理的とラベルすることが自身の視点を反映していると説明し、合理性と非合理性についての自身の偏見を内省するきっかけとなると述べています。さらに、これに気づくことが対立を減らすかもしれないと示唆しています。
大変興味深いです。また読みたい本の棚に積み上げることになりそうです。








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